重たいなぁ・・・・。読み始めてからずっとそんな思いが胸の奥底にくすぶっているのを感じる。
『7月22日(火)
イヤな郵便物が入っていました。・・・・
葉書に頭部の絵。
「お前たちが交尾してできた化け物の責任を取れ」
第三章「逮捕直前の息子Aと私達」(父親の手記)』
・・・・A君が逮捕されたのが6月28日。A君は両親に会うことを一貫して拒否していたため、両親が本人の顔を見たのは、9月18日だったと。
淳君を失った土師さん一家の悲しみ、怒りは決して消えることはないだろうが、また、A君を生み育てた両親の悲しみ、苦しみもまた、僕にはとうていはかり知ることはできないほどのものだろう・・・・。
よく、マスコミなどでA君の成育過程が云々される。
僕は、育て方についてあれこれ言うつもりや感想を述べるつもりは毛頭ない。
ただ、ただ、子育ての難しさを思うばかりだった。
一章 被害者とそのご家族の皆様へ <父の手記>
二章 息子が「酒鬼薔薇聖斗」だと知ったとき <母の手記>
三章 逮捕前後の息子Aと私達 <父の日記と手記>
四章 小学校までの息子A <母の育自日誌と手記>
五章 中学校に入ってからのA <母の手記>
六章 Aの「精神鑑定書」を読み終えて <母の手記>
メールマガジンに上記のような感想をとりあえず書いたのは、四章の初めの方まで読み終えた時だった。
淳君のお父さんの手記に、「どうして加害者は直ぐに・・・・」というような記述あったと思う。
その言葉、思いが強く残っていた僕にとって、一章〜三章を読み、それなりの答えが見つかったような気がしたのだった。
とにかく、何が何だかわからない状態、信じられない いう両親の気持ちがわかるような気がしたのだった。
しかし、これは四章、五章を読み進めていくにつれ、大きく変わっていった。
両親、特に母親の感覚に、ものすごい「違和感」 を感じたのだった。
その「違和感」が何であるのかがわからずに、ずっとモヤモヤした状態で僕はいた。
この「ノーテンキ」と言う言葉を何度か目にした。
詳しくは触れないが、小学校時代、中学校時代と、A君は、様々な問題を引き起こしてきた。
万引き、女の子をエアガンでうつ、『赤色を塗った粘土の固まりに剃刀の刃をいくつも刺した作品をつくり』、その作品を『人間の脳』と言ったり・・・・・。
そうした事態に対して、「ノーテンキ」だった、と言う母親の心理こそ、僕には不可解でならなかった。
この言葉以上に、「なぜだかわからない」「どうしてなのかわからない」を母親は繰り返しているが、「息子を理解できないでいる『私』(母親)」そのものに対する、問い直しが全くない。
僕の経験上の話だが、生徒が問題を起こした時、本人の成育経緯そのものよりも、その親自身の成育過程が問題になることが多々ある。
自分自身への問い直しが、欠落し、「すまなかった」「わからない」「親として失格」を繰り返しても、どうしても心に響いてこないのだろう。
読者である僕にも響いてこない言葉が、被害者の方たちの心に響くことはあるまい、と思ってしまった。
『四章 小学校までの息子A』 と 『五章 中学校に入ってからのA』 の母親の育自日誌と手記を読み進めながら、A君の様々な問題をどうして関連づけられなかったのだろう、という疑問をずっと持ち続けていた。 その疑問が、上記の『いい子ではないけど、百パーセント信頼し、愛していた息子を疑うことは、どうしてもできませんでした』(P.229)を読んで何となくわかったような気がした。
僕は「我が子を疑うことがないか」と聞かれたら、答えは「NO」だ。
子どもは過ちを犯すものなのだ。そうした過ちを繰り返しながら、少しずつ少しずつ成長していくのだ。
そんな我が子との関わりの中で、親もまた揺れながら「親」になっていくのだと思う。
信じる、ということは、その相手との関係を信ずるに足るものにまでしていく戦いに他ならないと、僕は思うのだ。
僕は絶えず、疑いを持ち続けているつもりだ。
我が子はこれでいいのだろうか?
そして、僕は親としてこれでいいのだろうか、と。
結局は、我が子から目を背け続けていた「私」の姿ばかりが、心に残ってしまった。
こうした本を読む時、必ず、自分や、自分の家族に置き換えて考える。
そして、自分の子育てや、自分自身の成長、考え方にプラスになるものは何か、という視点から眺めている。
この「『少年A』この子を生んで・・・・」を読み終えた後、の重苦しい気持ちは、後味の悪いワイドショー番組を見た後の感覚と似ているところがある。
この本の冒頭の「両親の手記を刊行するに当たって」に
『彼は一体何者なのか?
この少年は、親にどのように育てられ、ここまでに成長したのか?』 (P.11)
と書かれているが、「A少年を育てた親はどう育てられたのか?」という所こそ、僕自身、そして世の親たちにつながることなのではないだろうか、と思った。
単なる、のぞき見的に「少年A」に接してしまった気がしてならない。
最後に行けば行くほど、「言葉」が遠のいていった・・・・・。