「淳 Jun」を読む・・・・

(『 』内は、土師守著 「淳 Jun」 新潮社よりの引用です。)

 昨日、頼んでおいた、「淳 Jun」が手元に届いた。
 家に帰った後、一気に読んでしまった。同時に、この本のことを書かないではいられなくなった。

 『・・・・あの忌まわしい事件が起きてから、一年が経ちました。私たちにとりましては、あっという間に過ぎてしまったように思います。季節が変わり、周囲が華やいだ雰囲気になっても、私たちのこの深い悲しみは一生消えることはあり得ません。
 この悲惨な事件を教訓にして、私達のように悲嘆にくれる者が出なくなるように、この国が変わっていくよう心より願いたいと思います。 平成10年5月24日』
 
 こうした事件が起こる度に、もし我が子だったら、ということを考える。
 
 ──いたたまれない、そう言うしかない現実。最愛の息子がもう帰ってこないという現実。

 僕たちの生活の中から、ゆーたがいなくなることなど、想像できない・・・・。
 しかし、そうした想像できない事実が土師さん達の目の前に起きたのだ。
 

本の内容

 「誕生と成長」「永遠の別れ」「変わり果てた姿」「捜査」「犯人逮捕」「少年と人権」「不信」「報道被害」「少年法」「供述調書」「卒業、そして一周忌」「あとがきにかえて」
 これらの目次を見れば、土師守さんが、何を言いたいかがおぼろげにも見えてくるかもしれない。
 土師さんの気持ちがよく伝わってくる。読みながら、何度か、息ができなくなった。

 やり場のない怒り、犯人が14歳という特異性・・・・。
 土師さんの

 『私達は、犯人逮捕についてはホッとしましたが、犯人が十四歳の未成年だったこと、そして何よりA少年だったことで、何とも表現のしようのない感覚になっていました。
 怒りと空しさ──これで犯人が死刑になることはない、いやそれどころか通常の裁判すら受けることがない、と思うとどうしようもなくやりきれない感情がこみ上げてきました。』

 という言葉が、今回の事件の出発点であるような気がした。

人権

 結局、淳君が家に戻れたのは、骨になってからだと。
 
 犯人の14歳の少年の人権が叫ばれれば叫ばれるほど、被害者である土師さんの人権はどうであったのか、と。

 マスコミでも少年法の論議と相まって、しきりにA少年の人権が取りざたされた。
 しかし、それ以上の重さでもって、土師さん達の人権を論じ、焦点にした報道は、果たしてあったのだろうか?
 残念ながら、僕の記憶にはそうした報道の記憶はない。

 「少年法の問題」「こうした事件が起きた背景」はこれでもか、というくらいに色々な報道がされた。
 しかし、「私達は、被害者の方の人権を尊重し、被害者の方が何かを語って下さるまで一切の取材及び報道を行いません。」
 そんな宣言を出したマスコミはあったのだろうか?

 『A少年の顔写真が掲載されたときには、批判が出ました。
 A少年の人権侵害ということが大きな理由でした。
 (中略)
 目隠しの線が入った写真も、入ってない写真もありましたが、氏名は一切出されていませんでした。一般の人たちには。この写真だけでは個人を特定することはまず、困難だと思います。
 それに対して被害者の側は顔写真も氏名も連日、新聞やテレビに出されていたのです。被害者側には、A少年に認められている人権さえも認められていないのです』

 この言葉は、とてつもなく重たい・・・・・。

この本が問うもの

 『最も酷い嫌がらせは、事件発生後まもなくにきたものでした。それは一通のハガキで、人間の首を切った絵を書いていました。
 その絵の横には、
 「母親よ!今度はお前の番だ」
 と書いていました。』

 『心優しい人達がたくさんいるのとは反対に、このように心の貧しい人達も多く存在しているのも事実です』

 この事件の後に、多くの励ましや慰めとは反対に多くの嫌がらせが土師さんの所に届いたと。

 「踏まれてみないと踏まれた足の痛みはわからない」というのなら、あまりにも悲しいことだ。

 ワイドショーや週刊誌。
 マスコミの行き過ぎた取材問題、報道姿勢はよく取り上げられる。
     ・・・・今は連日のように、和歌山の保険金詐欺事件の報道・・・・。
     こんなに事細かく、報道する必要があるのだろうか・・・・・?

 しかし、そうしたマスコミを後押ししているのは、一体誰か、と考える必要があるのではないか?
 
 今の受験体制にしてもそう。
 「おかしい」と思いつつ、本当に「おかしいものをおかしい」と言い続けている、大人達はどれほどいるのだろうか?
 声をあげない限り、本人の思いはどうであろうと、そうした体制を後押ししてしまっているのだ。
 
 思うことは簡単だ。しかし、その思いを日常生活のレベルにまで浸透させることがどれだけできるのか、と言うことを改めて問い直す必要があると思う。

 社会の出来事や事件に決して無関心で良いと思わない。
 しかし、関心を持つことと、興味本位でのぞき見をすることとは、全く違うのだ。

 「文芸春秋」に供述調書が掲載されたが、僕は元から読む気にもならなかったし、そうした記事を出す側の気持ちも信じられなかった。
 しかし、それ以上に、発売された「文芸春秋」を買っていった人たちの気持ちの方が、その何倍も、何十倍も僕には信じられなかった。

 「マスコミの問題」には触れられているが、その後ろにある、僕たち一人一人の他人に対するやさしさと言うものこそ、問われているように思えてならない。

本の「帯」・・・・

 「全国に広がる悲しみと憤り」「魂が震える手記!」「大反響、涙と感動の声」
 「神戸少年事件の被害者土師淳君の父親が沈黙を破って悲痛な胸中を明らかにする!」
 ・・・・・「淳Jun」の本の帯には、上のような文言が書かれていた・・・・。

 こうした帯の文言は誰が考えるのだろうか?
 僕は違和感を覚えずにはいられない。
 
 決して土師さんの思いを共有することはできないが、土師さんの気持ちと、この帯の文言がかけ離れているように感じるのは僕だけだろうか?
 僕は、この帯をすぐに破り捨てた。
 

・・・・大河内清輝君

 この名前を聞いて、「あぁ」と思う人もいるかもしれない。
 僕は大河内君のお父さん、お母さんのことを考えていた。
 大河内さんとは何度かお会いし、お宅にもお邪魔させてもらった。

 中身は異なるにせよ、土師さんにしろ大河内さんにしろ、マスコミのターゲットとなり、世間の好奇の目にさらされ、一番苦しんでいる時に、悲しみのどん底にある時に、心の中を土足で踏みにじられていったのではなかろうか・・・・と。
 

 結局、何を書きたいのか、うまくまとまらないもどかしさを感じている。
 でも、僕はこの本を読まずに入られなかったし、何かを書かずにはいられなかった・・・・。

 そして、一人でも多くの人にこの本を読むことをお勧めする。
 マスコミサイドの一方的な報道しか、伝えられていない僕たちにとって、土師さん自身が語る思いを少しでも受け止め、こうした悲しい事件を決して記憶の彼方に追いやってはいけないと思うから・・・・。

 
 ・・・・・改めて淳君のご冥福をお祈りします。(1998年10月8日)