1998/4
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1990/3 |
- 静岡県東部の私立の女子高校で教壇に
- 1987年、結婚。
- 1988年、長男ゆーた誕生
- ゆーたは生後二日目に大きな手術を受けた。
- 1990年、退職
- ゆーたのためには、浜松で僕の両親と一緒に暮らすことがよい、と結論を出した。
公立高校の異動の締め切りが12月。
僕は仕事が決まっていなかったが辞表を出した。
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1990/4
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1992/3 |
- 浜松の私立の女子高校に教員に
- 理事長が、浜松の私立高校を紹介してくれた。
本当にラッキーだった。
そのまま横滑りで高校の教員を続けることができた。
- 浜松の学校を退職
- ゆーたは、週に1回ほどは何かしら病院に通っていた。
クラスを持っていながら、息子のことで手一杯だった。
中途半端にしか教師をやっていない自分がイヤだった。
同時に、東部の学校のように語り合える仲間を僕は見つけられなかった。
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1992/4
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1995/3 |
- 黄柳野高校の設立運動に関わり始めた。
- 愛知県鳳来町に市民の手で学校をつくろう、という運動があった。
話を聞き、黄柳野高校設立準備委員会に加わった。
いつしか、ほとんど家に帰らず、寄付金集めに全国を飛び回るようになった。
この間、保育園の送り迎えは、親父や女房が。
我が家は僕がいないことを前提に動いていた。
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1995/4
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1998/3 |
- 黄柳野高校開校
- スタッフとして、黄柳野高校に勤めるようになる。
以前にもまして、家には帰らなくなった。
- 1996年、ゆーた小学校2年生に
- ゆーたは精神的にきわめて不安定に。
興奮して泣き出したり、学校を飛び出したり・・・・。
しょっちゅう、学校から呼び出され、何度も先生達と話し合った。
医療関係にも相談をした。
「何かあったら、すぐに対応できる体制をとる」ことにした。
女房か、僕か、ということで、現時点では父親の僕が良い、
ということになった。
- 1997年1月〜1998年3月
- 黄柳野高校を休職。翌98年、3月退職。
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1998/4
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「主夫」と言うほど家事をしているわけではない。
とにかく、息子が帰ってくる時間には、家にいるようにしている。
時間はあるが、まとまった仕事につけるわけでもなし・・・・・。
これから、どこへ行くのだろう、と暗中模索状態・・・・。 |