「代議士」「医者」「弁護士」「教師」・・・・・。「先生」と呼ばれる人たちは、とにかく敵に回しては行けない。
特に、代議士を「先生」と呼ぶのか不思議でならない、と思うのは僕だけだろうか・・・。というのは余談。
沼津の学校で、最後の3年間、僕は進路課の就職担当をしていた。
毎年、7月から始まる求人票の受付の前、卒業生のお世話になっている会社や、毎年求人を寄こしてくれる会社に「今年もよろしく」と挨拶にまわる。
僕が進路課になって初めての年。丁度バブルの直前の景気が悪く、来年度の就職は厳しい、と言われていた。
案の定、ほとんどの会社では、「採用の予定はありません」という答えだった。
中には、こちらと会うことさえもしない所も何社もあった。
それでも、毎日のように時間が空いていれば会社をまわった。
ところが、6月あたりから、急に景気が上向き、各社とも人手が足りなくなった。
7月。求人の受付開始。
先に僕たちがまわったときには、相手にもしてくれなかった会社からも次々と人事の担当者がやってきた。
「先だっては申し訳ありません。席を外しておりましたので・・・・・」
「何卒、我が社にも卒業生を・・・・」
進路課の就職担当の先生方、ということで食事にも招かれた。(おいしかった)
ま、「接待」というヤツですね。
その年の求人数は、例年とは比べものにならないほど、多く、夏休みにもなると(生徒の就職希望を決定する時期)、学校だけではなく、自宅に次々と色々なものが届けられた。
(女房は、「返したら」と言ったが、面倒くさかったのでもらっておいた・・・・)
こんなもんなのか・・・・。
生徒は商品・・・・。なんかある種の人身売買をしているような気にもなった。
・・・・・・・
そして僕たちは、あたかもその会社のことを知っているかのように、生徒や親に説明する。
「この会社は・・・・」
教師になってイヤだったのは、自分の傲慢さに気がついたとき。知らず知らずの内にそうなってしまっていた。
教師になって良かったことは、生徒との色々な事を通して、自分が変わったことを実感したとき。
いろいろとぶつかりながらも、本当に心が通じ合えた、と思えたときほど幸せなことはない。
かつての教え子達から「先生っ」と言われてもなんにも抵抗はない。
(もちろん、陰では「おさむ」と呼び捨てなのも十分承知の上だが)
けれど、肩書きとして「先生」と呼ばれることは頑なに拒否したい。
人間関係のできあがっていないところで、「先生」と呼ばれると虫ずが走る。
「僕は、アンタの先生でも何でもない」
石垣りんという詩人の「表札」という詩の中の
「殿も 様も ついてはいけない
石垣りん それでいい」
という一節がよく本当に大切だと思う。