高校に入ってすぐのこと。
とある教師とのやりとりで頭にきた僕は、その教師の足元に唾を吐き滅茶苦茶怒られた。
その時、「高校は義務教育じゃないんだ!お前は学校を辞めさせられたいのか!」とその教師は言った。
正直焦った。「折角入った学校なのに・・・・。これが高校なのか・・・・」と。
結局、親父が呼び出され、音楽室(音楽の教師でした)の掃除を一週間、ということになった。
学校を辞めさせられるかも、と恐れおののいていた僕は、「罰掃除」という言葉に、
「あ、そうですか。それだけですか・・・・」などと、口にしたものだから、その教師はますます怒った。当たり前だろうなぁ・・・・、あれは余計な一言だったんだな、と今でも思い出す。
でも、一方で、「退学云々、って結局は脅しじゃないか!」と思ったのも事実だった。
あんな教師にはなるまい!そう思った。
一方、僕の人生の中で、今でも感謝している先生は3人いる。小学校と中学校と高校時代にそれぞれ一人ずつ。そうした先生のおかげで、今の僕はあると思っている。
だから、教師の道を選んだ。
大学卒業後、ある日を境に「学生」から「先生」へと僕に対する呼び方は変わった。そして憧れていた教壇に立ち、生徒たちからの「先生」という呼び方に酔いしれた。
この「先生」という言葉には不思議な魔力がある。
自分は何も変わっていないのに、途端に何かしら自分が偉くなったような錯覚を起こさせるのだ。
一番は親たち・・・・。自分の年齢の倍近い人生を送っている人たちからも「先生、先生」と言われる。たとえ心の中でどう思っていようとも。
実際、我が子を「人質」にとられているのだから仕方あるまい。「先生」は「生徒たち」に対して、絶対的な権力を持っているのだから。
一つは「評価権」。
どう、成績をつけるかによってその生徒の進路は決まってしまう。もっと言えば、「単位を認定しない」という伝家の宝刀がある。その言葉をなんど口にしたことか・・・・。
結局は、僕が今でも忌み嫌っている高校時代の教師と「同じ穴の狢」だった。
もう一つは「懲戒権」。
これは正しくは学校長に与えられた権限だが、生徒にしてみればそんなことは関係ない。
「お前、学校やめたいのか!」「謹慎だぞ!」・・・・。
中学校でも、「内申書」の問題がずいぶん取りざたされているが、本質的には同じ事。
「先生」は敵に回したらおっかない存在なのだ!
うっ、長くなってしまったから「その2」に続く、ということにしよう。