先週の水曜日から、ゆーたは学校に行かなくなった。
ゆーたが決めたというより、僕たち親が「行かせない方が良いだろう」という判断をしたのだった。
2学期に入ってから、ゆーたの精神的な不安定さは、ますますひどくなっていった。これは、今月末にある、林間学校で2泊しなくてはいけない、ということが大きな要因だろうと思う。
それに伴い、気分感情のムラが激しく、気持ちが乗らないとホント何もせずにいてしまう。
周りから見れば、「サボり」にしか見えないようなゆーたの行為。
不安定であるが故に、突然感情を爆発させたり、と。
クラスの子ども達も、イライラを募らせる。
5年生という時期は、思春期に向かい、自我に目覚め、精神的に色々な壁にぶつかっていく時だ。ゆーたの言動を理解することは、自分のことで手一杯な子ども達にしてみれば、非常に難しいことだろう、そう思う。
ゆーたの存在自体が、「イライラ」を募らせることにもなる。
何かの拍子にゆーたにちょっかいを出すようになる。
ゆーたはますます不安定になる。
しまいには、ちょっとぶつかった、というだけで「首をぎゅっと締められた」「手を捻られた」ということも……。
「学校に行くと、何をされるかわからない」そういう不安を、強く抱くようになった。
家でもちょっとしたことで、感情を爆発させるゆーたに対し、こちらの口調も次第にきつくなる。ますます、感情を激昂させるゆーた。
「筋が通らない」話が続く。
このままでは情緒障害を引き起こしかねない。「二次障害への危機感」。
これを強く感じ、しばらく学校を休ませることにした。
併せて、メンタルクリニックに親子三人で行くことにした。
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メンタルクリニックでは、院長先生が面談を行った。結論的には、
「学校のような、大きな集団では、今、大変でしょう。こちらに併設しているデイケアに通わせてみたらどうでしょか?」ということだった。
デイケアの担当のスタッフと今週の金曜日に詳しい話をしにいくことになっている。
本当にイライラしてしまう。
イライラすれば、僕の口をついて出てくる言葉には、ますますきつくなり、ゆーたを追いつめていく。
ゆーたも負けずに言い返す。そんなことを繰り返していて、ゆーたの精神状態に良いわけがない。
毎日家に居て、「ゲームは一時間だよ」と言ってはみても、他にやることのないゆーたは、二階に僕がいない時には、延々とゲームに興じている。
MP3のレコーダーのRio500を衝動買いした。ゲームの音が聞こえないように。
ゆーたの言葉が極力、耳に入らないように……。
ゆーたからしてみれば、「拒否されている」と思うだろうなぁ。
確かに、今僕のしていることは「無視」だろう……。
しかし、口を開けば、きつい言葉をゆーたにぶつけ、更にゆーたを傷つけていくよりは、まだ「まし」だろうと思っている。それしか、今、僕には対応する術がない。
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僕は今、ゆーたのことを「僕の立場」から見ていると思う。
思いっきり身体を動かし、汗を流すことの気持ちよさ。
みんなと一緒に、何かやることの大変さと、やり終えた後の充実感。
色々な体験を通して、心豊かに育って欲しいと思っている。
一人で生き抜いていくたくましさを身につけて欲しいと思っている。
5年生になると、周りの子ども達は、ビックリするくらい大人びてくる。
同時に、ゆーたと周りの子ども達の「差」が歴然としてくる。
そうしたことに対する、「焦り」が僕の中にあったのだろうと思う。
「5年生になってから、急に厳しくなった!」ゆーたが最近、よく口にする言葉。
ゆーたにとってそのハードルの高さをどうであるか、と言う前に、5年生である、ということでハードルの高さを設定していたんだろうなぁ、と。
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「子どものあるがままを、まず受け止めること」
そこが出発になることは、頭ではわかっている。
が、そうした気持ちに心底なれないでいることが、一番、自分を苦しめて
いる要因だろうなぁ。
学校はゆーたのような手のかかる子どもをどこまで受け止めるつもりがあるのだろう?
今の担任の先生は、今年転勤でやってきた。40過ぎの「ベテラン」の男の先生だ。
一学期から、何度も学校と連絡をとり、また、家にも寄ってもらったり、よくやってくれるとは思うのだが、どうもズレを感じ続けてきた。
「サボっている」「怠けている」そう言う言葉が気になった。
「ゆーた君のような子は、初めてで、どう対応して良いかわからない」とも。
「何かトラブルがあったら、直ぐに連絡を下さい。特にゆーたがパニックを起こすようなことがあったら、学校に出向きますから」
そこのところを一番強くお願いしてきたつもりだった。
学校に行かなくなって、二度ほど、家に寄ってくれた。
「学校やクラスがゆーた君にできることは何かありますか?」と言ってくれた。
子ども達が受け入れる前に、担任や学校が、本当にゆーたを受け入れていこう、という気持ちがあるのだろうか?
本当にしんどいことだと思う。
でも、そのしんどいことをしよう、という思いが担任になければ、話にならない。同時に、担任だけにしょわせるのではなく、学校全体が、そう言った気持ちにならない限り、無理だろうなぁ、と。
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「どの子も見捨てない」という言葉はカッコ良い。
しかし、その言葉を口にするには、何よりも大人自身が変わらなければならない。
きれいごとですますのか?
それとも「限界」を口にするのか?
僕は自分自身の教員時代と、今をだぶらせる。
もし僕が担任だったら、まだまだできることがあると思っている。
色々とやることがあると思っている。
でも、今は担任に対して、あまり要求をしていない。
ゆーたを受け止めることが、クラス全体にとっても、学校全体にとっても、大切なことなんだ、という気持ちがない限り、表面をなぞるような形で終わってしまい、結果として、かえってゆーたをより傷つけることになるだろうから……。
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僕は、学校に固執していない。
女房は、「そこまでわりきれない」と言う。
僕が固執するのは、「ゆーたと同年齢の集団」だ。
学校がその場に相応しくなければ、見つければ良い。
なければ作り出せば良い。
そう思っている。
しかし、まだ、その「場」は見えてこない。
時間がかかるだろうなぁ、ということだけはわかる。
同時に、僕もゆーたも、そして僕たち家族が、これから、もっともっと、悩んでいくだろうということも。
ゆーたには、一生何らかのフォローが必要かもしれない。
今の社会は、弱者に対して、あまりにも厳しすぎる。
何を作り出していくのか、そこを探さないといけない。
長い道のりになりそうだ……。